仮説を建てる

仮定の質問にしか答えはない

右左対立ではなく、まつりと脱まつり主義の対立である。

■オリンピックはカウチポテトの人々だけのものではない。東京の医療従事者のものでもある。

竹田と宇都宮の対立は対等な対立ではないが、あえて対等な対立として見てみよう。

竹田が行っている事はカウンターである。つまりネットミームを集めた2ちゃんねる的ノリの“まつり”である。火をつけて「炎上」させるキャンプファイヤーのエンターテイメントだ。

一方、宇都宮健児氏は、墨東病院の悲惨な現状、毎日急患が運ばれてきて命のトリアージに迫られる、都会の病院が野戦病院化するような状態になる裏で、「オリンピックの用意」を命じられた医療従事者の悲痛な絶叫をオルグしようとしたものである。


自傷皇族竹田が嫌う「赤」、共産主義は資本主義の悪点を超克する為に思想された。脱資本主義、この試みは100年も前から続いている。資源の枯渇や、資源の独占が人々を脅かすことは明らかだからだ。

2021年の今、資本主義の力で人々は豊かになり、中国の11億人が車に乗り、アフリカ大陸の全ての人がスマートフォンを手にする時代が来た。それと同時に資源の枯渇は順調に進んでいる。

資本の良面は輝いているが、資本の暗面は何も克服できていない。その問題だ。

資本の独占と格差、それだけではない。仕事の枯渇、エネルギーの枯渇問題、無駄な動きは、負の効果の方が重くのしかかる状態にゲームはチェンジされた。無限の消費が地球規模で許されないレベルにまで到達し始めた時代の到来だ。

公共事業。穴を掘って埋めると言ったケインズ。地方に使われない道路を作り補修を繰り返す。これは止めよう。もっと資材を使わない仕事を作り出す必要がある。そこで生まれたエンターテイメント、バーチャルの世界のCG制作やゲーム、アニメ、映画製作。これで無限にジョブをクリエイトする事ができると思った。しかしこれも電力の製造で出る負の遺産、開発に消費される巨大なムダやゴミ、結局依然として全く状況は改善はない。

ガソリン自動車を電気自動車にしたところで、資源の枯渇や地球の汚染は全く改善されないのと同じ、もっと問題は複雑化し大きくなる一方だ。

建設からエンタメへの公共消費は結局のところなんの問題解決にもならないのだ。

そんな消費主義の最先端にいる、まつり主義者とは、ディズニーランドに行きたがる大人達のことである。

クレヨンしんちゃん大人帝国の逆襲が描いた、オウム真理教事件

サドのための絶叫で、スペクタクルの世界と名づけ、ギードゥボールは警告し、知的財産のコモン化を謳った。

エリートの為の消費財、エンターテイメントと化した“まつり”を消費財から共有財に帰っていかせることである。

タイトルには間違いがあった。

正確には、「エンタメと脱エンターテイメント主義の対立」である。

そして世界はこの狂気のスペクタクルの世界に飽きて、脱エンターテイメントが勝ち、再び現実社会を生きる人々の世の中に戻っていくのである。

そうすれば、ネット上の狂気の「まつり」も、本来の「祭り」に戻っていくのかもしれない。

クーベルタンの思想はもうとっくの昔に昇天し潰え、形状の劣化した残骸だけが世界に重くのしかかるのである。脱構築する必要があったが、少なくとも今回は確実に間に合わなかった。