仮説を建てる

仮定の質問にしか答えはない

言葉を正す

■巧言令色鮮仁、剛毅木訥近仁

古来日本人の心の拠り所である論語、その中心は究極の道徳、仁。孔丘はこの仁と名を正すことにこだわっている。

しかし、仁について、本当にその意味を正確に捕らえられているのかどうか怪しい。

まず、仁は意図的な意味の書き換えを、時の為政者の意や国家の方向付けの為に、歴史上何度となく受けてきた。更に2000年以上も昔の価値観だから当然変化は付き物。現代人が概念を共有できるのかも怪しい。

孟子の中で不仁は死んでいることとある。仁は麻痺していないこととある。

冒頭の論語内で孔丘は、コミュニケーション能力の高いやつは仁が足りないと言い、頑固で喧嘩っ早いのとボーっとしていて動きの遅い奴を仁に近いと言っている。

これが最高の徳らしい。文献を参考に自分は次のように理解した。

・生きていること。

・反応が直な事。

以上を統合して考えるに、人としての最高のあり方は、人間らしくあることと読める。

ドラッカーは経営者に必要な資質をintegrity of character.だと言っている。似ている。

 

つまりこの世界でやってはいけない事があるのだとしたら、それは、

知っているのに、知らないふりをする。

これに尽きる。

やらなきゃいけないのに、やらないとか、他人を演じるみたいな事もやるべきではない。「ウソをつくな」と言う事だ。

ガキの頃から言われるこれをバカにしてはならない。これは、民主主義を成り立たせる上で重要なファクターだ。慮りは人を思ってするが、人のためにならないばかりか、場の合議も成り立たなくさせる。思いやりは人を縛る。忖度は敵だ。

田舎の集落で行われる寄り合いは関係のないことを永遠と何週間にもわたって酒盛りをしながら話し、最後に長老の独断で決める。古来の日本のスタイルだ。おそらくエニシの文化だろう。このスタイルは民主主義の未来を示している。

結局、本気で悩んでいる人は誰で、何についてどれだけ深く悩み窮地にあるのかを知る犯人探しなんだ。心に不安が留まっていると、必ずそのことについて喋ったり、逆にその話題を遠ざけたりする。

そんな時に、不安を表に出さず上手に隠し通し明るいキャラクターを演じきってしまう人間がいたら。村の進む方向性を見誤って悲しみを放置してしまう。

 

SNSツイッターの書き込みがおかしな方向へ行く原因は決まって、「記者が偏向」して書いていると言う決めつけだ。常に嘘の自分を演じて生きているので、嘘が書いていないと言うことが受け入れられない。「お前はどこの組みの者だ?」「そんなことを言うのはあの組の者に違いない」「自分の組に利益を誘導しているにだろう…」

疑心暗鬼の理由は、己もそういうことをして演じているからだ。バカを演じて煽ることがコミュニケーションを破壊する。社会の中で潜在意識に刷り込まれ、もう演じていることにすら気がついていない人達のパンデミックが起きている。一見まともに見えるような「戦争頑張ってください。」みたいな言葉のチグハグさが際立つ。戦争なんか起きていないし、兵士ががんばってもどうにもならないのに、お前が頑張ってどうなるものでもない。もはやひとり情報戦を演じさせられている。カルト宗教の悲しい道化だ。

 

言葉を正すことだ。