仮説を建てる

仮定の質問にしか答えはない

凡庸な悪こそが虐殺の原因だとしたら

■「火をつけてこい!」言った市長。ところがこの市長、仕事の出来るいい市長となったようだ。

なぜだ!

喧嘩両成敗、加害者にもそれなりの理由はある。殴られた子にも殴った子を挑発した責任はあるだろうし、殴った子にも正義感から許せない一線があったかもしれない。犯罪、事件、訴訟。日々のニュースは皆大体そういうものだ。

しかし、両者の言い分を聞いて平等の秤にかけた時、最終決定はそれで良いのか?確かに一方的な被害者の惨劇が報道の前面に出てきて、一見公正な判断に曇りが生じているかの様にも映る。

いや、そもそもテレビでは真実など見えない。重要なのは現場を取材した記者がどう感じたかだ。軽視されているが本質はそこにしか無い。

交差点の真ん中に地権者がいる。事故が多発しても行政が火をつけて地権を剥奪するのは住民にとって恐怖政治だ。行政は別の方法で事故を回避する対策を打たなくてはいけないのではないか?


複雑化する高度社会では、簡単に正義と正義の衝突が起こり、胸に手を当てれば皆正義の踏み外しの経験のひとつやふたつある。その経験が過去を想起させ、奇怪な擁護になるのだろう。しかし忘れてはいけないのは凡庸な悪程恐ろしいものはない。

目の前に、目にアザをつけた子供と、暴力を振るった子供がいる。どちらの子に何を諭し、どちらの子に何を諭すのか?

火をつけた方がいいのか、良くないのかは、自明。市長はやめた方がいい。


しかもその裏には現在の市長を支える支持母体が問題を見えにくくする巧みな画策を施した跡が見え隠れする。